とある刃物屋の話


古い民家と畑の風景が広がるのどかな田舎町、「ハグルマ町」。
このハグルマ町の片すみにある刃物屋で僕は、研ぎ師兼、店番として働いていた。

遠い昔から代々受け継がれてきたこの店は、古い建物特有のにおいがして、壁の色もだいぶ色あせている。
おまけに来客もほとんどないような店だけれど、僕はこの店で過ごす時間が好きだった。

ある夏の日の午後。
店のそとは地面に照り返す強い日差しのせいもあって、暑さに揺らいでいた。

僕は研ぎ場の椅子に座って、そんなそとの景色をぼんやりと眺めながら店番をしていた。
店内は空調のおかげでひんやりとすずしいけれど、遠くに聞こえる蝉(せみ)の鳴き声は、さすがに暑苦しい。

そのとき、きい、とひかえめな音がして、店の扉が開いた。

「いらっしゃいませ」

僕は反射的に椅子から立ち上がる。
お客は、刃物屋の来客としてはめずらしく、若い女性だった。

若いといっても、僕と同じか、すこし年上くらいだ。
ゆるやかなウェーブのかかった長い髪に、広いつばの白い帽子。品のいい白のブラウスと、黒のスカートを身につけている。

女性は帽子をとると、はにかんだ。

「あの……、このお店で包丁を研いでいただくことは、できますか?」
「ええ、もちろんです。僕がお研ぎします」

僕の答えに、女性は安心したように息をつくと、肩からさげていた鞄から、桐の箱を取り出した。

「この包丁なんですけれど……」

そう言いながら、女性が箱のふたを開けた。
箱に収まっていたのは、一本の出刃包丁だった。水焼き入れの本焼包丁で、なかなかの逸品だ。

「主人の包丁なんですが、だいぶ切れ味がわるくなった、というものですから……」

女性の言うとおり、その包丁はずいぶん使いこんでいるのか、刃先の傷み具合がはげしい。
僕は刃先を指でなぞりながら、言った。

「すぐに研ぎ始められますよ。この傷みかただと……三十分くらいはかかってしまうと思いますが」
「それでけっこうですわ。研ぎ終わるまで、ここで待たせていただいてもいいですか?」
「ええ、どうぞ」

僕は包丁を受け取り、店内のすみにある研ぎ場へもどった。
そして水に浸してあった砥石(といし)を取り出し、作業台のうえに固定する。

僕は包丁の刃先を砥石に押しつけると、手前から奥へと押し出し、そして引くことを繰り返した。
店内に、しゃり、しゃり、……と、刃を研ぐ音だけが響く。

興味深そうに作業のようすを見守っていた女性が、ふいにほほ笑んだ。

「引き受けていただけて、よかったわ。これで主人にも喜んでもらえると思います」
「ご主人は、この包丁になにか特別な思い入れでもあるんですか?」
「主人もですが、実は私にとっても大切な包丁なんです。……その包丁がきっかけで、私たちは知り合ったものですから」

思い出の品として包丁や鋏(はさみ)を大切にする人たちは、少なくない。
ついこのあいだも、華道家の女性が師匠から譲り受けたという、古い鋏を研いだばかりだ。

「そこまで大切に思われているなんて、きっと、すてきなご主人なんでしょうね」
「そんな……、でも、私はほんとうにしあわせ者です。彼と出会って、私の人生は大きく変わりましたもの」
「……というと?」
「私は以前、ある男性につきまとわれていて……、恋人にならなければ殺してやる、と、その男性に何度も脅(おど)されていたんです」

思いのほか深刻な話に、僕は息をのんだ。

「それはひどい。さぞかし、おそろしい思いをされたでしょう」
「ええ。……でも、そのとき私のことを守ってくれたのが、主人だったんです」

彼女はすこし、なみだぐんだようだった。
そっとひと差し指の背で目もとをぬぐうと、女性は続けた。

「主人がいなかったら、いまごろどうなっていたか……、そう考えただけで、ぞっとします。 主人には、感謝してもしきれません。だから私、彼が喜ぶことをしてあげたくって……」

女性は「マツリ」と名乗った。
マツリさんは話が終わると、ふたたび帽子をかぶり、あとはしずかに店内に並ぶ刃物を見て回っていた。

僕もしばらくは無言で包丁を研ぎ続けていたけれど、やがて刃返りがなくなったころ、その手を止めた。
仕上げ砥石で包丁をていねいに研ぎながら、僕はマツリさんにたずねた。

「ところで、さっきの話ですが……、マツリさんのご主人は、もしかして料理人ですか? 包丁がきっかけの出会いというのも、なかなかめずらしいと思って」
「お恥ずかしながら……」

マツリさんは顔を赤らめて、自分のほおに手を当てた。

「うちの主人は、料理人ではありません。それどころか、彼はまったく料理ができないんです」

どういう意味だろう、と僕が考えるよりも先に、マツリさんは、それはしあわせそうにほほ笑んだ。

「その包丁は、……当時、無差別で連続殺人に興じていた夫が、私につきまとっていた男性をたまたま刺し殺したときに、使った包丁ですのよ」


おわり
2014/10/05 擱筆
2017/04/10 表記ゆれの修正
2018/11/06 加筆修正、レイアウト変更