「……私もそろそろ、おいとまするわ」
少女がソファーから腰を浮かせたところで、私は思わず、彼女のうでをつかんでいた。
「……なんのまねかしら、米坂さん?」
思いきりにらまれ、萎縮(いしゅく)しそうになるこころをなんとかふるい立たせる。
「きみ、どこに帰るんだい?」
「あちらこちらを、点々と。お金はあるから」
……そのお金も、まっ当な金ではないだろうに。
私は彼女のうでをつかんだまま、たずねた。
「失礼だが、ご両親は……」
「知らないわ。私には、関係のない人たちだから」
彼女は目をそらしてそう答えた。
……私の娘は三歳で亡くなった。
そんな亡き娘と彼女を、まったく重ね合わせていないと言ったらそれはうそになる。
そうやって他人のおもかげと彼女のすがたを重ねることなど、失礼であることは百も承知だ。
それでも、偽名でも『米坂』と名乗ってくれたことが、
……私はなぜか、とてもうれしかった。
きっとここでお別れをしたら、もう二度と会うことはないだろう。
それはなんだかいやだ。
せっかくこうして、出会うことができたのに。
だから私は言った。
「くるみと言ったね。私の名前は、米坂ノアだ。……米坂の名前は、きみに貸しておくよ」
「……え?」
おどろいて顔を上げたくるみに、私は続けた。
「この屋敷の部屋もね。空き部屋は、たくさんあるから」
くるみはこちらの真意をうかがっている。
うたがわれたって、かまうものか。私は本心を伝えるだけだ。
「私とヨハンだけでは、この屋敷は広過ぎるんだ。
きみの気が向いたときだけでもいい、この家がきみの帰る場所のひとつにでもなれば。
……くるみさえよければ、私の娘にならないか」
私の必死な表情を見てなのか、くるみはくすりと笑った。
「お父さまと呼ぶには若すぎるわ。せいぜいお兄さまね」
「……! それじゃあ……」
くるみはすく、と立ち上がると、部屋のとびらとは反対方向、窓辺へと向かっていった。
窓のそとは暗い。
日中はあんなに暖かかった気温も、いまでは部屋のなかにも伝わってくるほどに、冷えこんでいる。
そのとき、だれも触れていないはずの窓が、ばたん、といきおいよく開いた。
ひゅうひゅうと、夜風が音を立てて窓から吹きこんでくる。
「……私も、そろそろお仲間がほしいと思っていたところなの」
闇夜にとけこむような色の髪を優雅になびかせて。
くるみは窓枠に飛び乗ると、ふところからなにかを取り出して、かかげてみせた。
「私は怪盗、『米坂』くるみ。 ……ノアお兄さま、『これ』は今宵(こよい)の記念にいただいていくわ」
くるみの手のなかにあったのは、『ヴィーナスの首飾り』と呼ばれる宝石だった。
月の光に照らされて、大きな宝石が虹色に輝く。
あぜんとしている私を尻目に、
彼女……『米坂くるみ』は、夜の闇のなかへとすがたを消していったのだった。
おわり
2013/02/02 擱筆
2013/08/18 連載終了
2015/09/23 加筆修正
2017/10/15 加筆修正
2018/04/21 タイトル変更
2018/11/07 加筆修正、レイアウト変更