7月6日(日) 20時過ぎ(a)


『七月七日』の前日、七月六日、日曜日。
東京都の池袋にあるその劇場では、クラシックコンサートの公演が終わったばかりだった。
劇場のロビーは、いまだ興奮の冷めない観客たちでにぎわっている。

その観客たちは、若い女の子ばかりだった。
ほどなくして、出演者たちがあいさつをしにロビーへと出てくると、女の子たちはきゃあ、と悲鳴にも似た歓声をあげた。
そして一瞬のうちに、出演者たちのまわりを取り囲んでしまった。

そんな彼女たちからすこし離れた場所……ロビーのすみに、僕、西森蒼太(にしもり・そうた)と、友人の白河(しらかわ)ハルカは立っていた。

「このコンサート、なんでこんなに人気があるんだ?」

ハルカが心底ふしぎそうに、首をひねった。

本来、クラシックコンサートにこんなに若い子たちが押しよせることはまず、ない。
いつもの客層は、だいたいが壮年(そうねん)の紳士淑女、あるいは音楽家を目指す学生、あとは演奏者の関係者がいるくらいだ。

僕は、ハルカに言った。

「まあ、一過性のブーム、っていうのはあるかもしれないね。 あのピアノ協奏曲を弾いた子は、いま話題のドラマの主役をやったり、主題曲を演奏したりとかで、ときの人らしいし」
「ふうん。……蒼太、やけにくわしいんだな」
「ハルカが世間の流行にうとすぎるんだよ」

ハルカは僕よりも背が低く、童顔だけれど目つきはするどい。
前髪を無造作にヘアピンで留めており、フードつきの半そでのパーカーを着ている。
名前は女子のようだが、見た目も中身も、歴とした男だ。

僕は学校のつきあいもあって、このコンサートに観客として呼ばれた。 しかしひとりで見るのもつまらないので、このハルカを誘ったのだった。

僕たちのもとに、出演者のひとりである丹波教授が近づいてきた。

「西森君、今日の演奏会はどうだったかね」

丹波教授は五十代くらいの男で、いまは黒のタキシードを着ている。
彼は、僕の通う大学、虹ノ端大学の音楽科の教授のひとりだ。僕の専攻楽器はチェロで、彼はピアニストだから、直接指導を受けることはない。 しかし、何度か伴奏をしてもらったりと、世話になったことがある人物だった。

公演を終えた丹波教授は、ずいぶんと機嫌がよさそうだった。

「ええ、とてもすばらしかったです。お疲れさまでした」

僕はそう答えると、丹波教授と握手をかわした。

「教授の新曲まで拝聴することができて、ほんとうによかったです」
「ハハハ、そう言ってもらえるとうれしいよ」

それまで僕のとなりで黙っていたハルカが、とつぜん丹波教授にあいさつをした。

「はじめまして。オレ、西森君の友だちです」

ハルカは満面の笑みをうかべている。
そして僕は彼のその笑顔が、うその笑顔であることを見抜いていた。

ハルカは続けた。

「いままで音楽についてはあんまりくわしくなかったんですけれど、 あなたのピアノの演奏がすばらしくて、超感動しちゃいました! これからはクラシックにも興味を持てそうです」
「ありがとう。自分の演奏が音楽へ興味を持つきっかけになるということは、音楽家にとって、この上なく名誉なことだよ」

そこで丹波教授は、はっとなにかに気づき、あわてて小さくせきばらいをした。
おそらく教授は、ハルカの服の右そでの部分から、『右うでが出ていないこと』に気がついたのだろう。

……ハルカは過去に、事故で右うでを失っている。
そしてそういった、どこか『ふつう』ではない人間を目の当たりにした時、人はなぜか勝手に気まずさを感じるものだ。
ハルカはそのことを、十二分に自覚しているのだった。

「……さて、私はほかの生徒にもあいさつをしに行かなければいけないから……、それでは西森君、また」

教授もまた例にもれることなく、気まずさを感じる側の人間だったようだ。
先ほどの機嫌のよさはどこへやら、逃げるようにして僕たちから離れていってしまった。

丹波教授のうしろすがたを見送ったあと、ハルカはくるりと向きを変えた。
その顔はもう、いつもの表情にもどっている。

「さ、帰ろうぜ、蒼太」
「ああ……でも、あんまり教授をいじめてやるなよ」
「わるい」

思いのほか、ハルカは素直にあやまった。

「ただ、今日はすこし、虫のいどころがわるくてな」

彼がああして、悪意をもって人と接することは、めずらしいことだった。
……まあ原因は十中八九、今日のひどい内容の演奏会のせいだろうけれど。