7月6日(日) 20時過ぎ(b)


劇場を出ると、すでに空は真っ暗だった。
しかし、昼間にはないネオンの明かりのおかげで、夜の池袋の街はより一層、さわがしく感じられた。

夜とはいえ、七月ともなると、すこし蒸し暑い。
居酒屋やカラオケの勧誘をよけながら、僕とハルカは駅の方面へと歩いていった。

「……で、蒼太。正直に言ってみろ。……今日の演奏会はどうだったよ? さっきの教授に言った『あれ』は、本心じゃあないだろ」

ハルカの問いに、僕は苦笑して答えた。

「まあ……、少なくとも教授の演奏は、ひどかったね。音を強く出しているだけで、するどさと硬質さに欠けていた」
「だよな! オレ、あの人の演奏はきらいだ」

ハルカが頬をふくらませた。

「あと、最後の曲? ラメントバスに頼りすぎ、不自然なピカルディ終止も笑えた」
「手厳しいな、……ハルカ」

僕は思わず笑ってしまった。

僕は、チェロを専攻しているといっても、学生のなかでは残念ながら、人並みの実力だ。
しかし、僕のとなりを歩くこの白河ハルカは、そうではなかった。

彼は、いまでこそピアノを弾くことはやめてしまったが、 幼いころ、……まだ彼に右うでがあったころは、『天才少年』といわれるほどに、音楽業界では有名なピアニストだったのだ。

僕も当時、彼のことはメディアを通して知っていた。
僕と同じように、音楽を志す者ならだれしもが、この若き天才音楽家の出現を、なんとも複雑な思いで見ていたことだろう。

あのころといまとでは、ハルカは服装も雰囲気も、だいぶ変わっていた。
昔の彼を知る者がいまの彼を見ても、とても同一人物だなんて思わないだろう。
現に、彼のことを知っているはずの丹波教授だって、まったく気づきはしなかったのだから。

ハルカは、ふわ、とあくびをして言った。

「まあでも、今日はいい刺激にはなったよ。最近は曲を作るために、部屋に引きこもってばかりだったからさ……」
「そんな時間があるってことは、まだ閑古鳥(かんこどり)なの? 探偵業のほうは」

ハルカは大学生の僕と同じ年にして、探偵の助手をして働いている。
しかし実際にしていることはというと、買い物をしたり、食事のしたくをしたり……と、助手というよりも主夫の役割に近いのだった。

ハルカが深いため息をついた。

「だって、当の探偵があんな調子なんだぜ? もしオレが路頭に迷ったら蒼太、おまえがオレを拾ってくれよ」
「骨くらいなら拾ってあげてもいいよ。……まあ、深神(みかみ)さんは……あれでいろいろ、考えがあるんだとは思うけれど」

深神さんというのがハルカの上司であり、深神探偵事務所の所長だった。
ハルカが言うには、いつも日中、ふらふらとどこかに出かけては、甘いものを買って帰ってくるような毎日で、
積極的に仕事を探しているようすは見受けられない、ということだった。

僕から見ても、すこし……いや、だいぶ個性の強い性格の人だけれど、根は良い人なんだと思う。……たぶん。

「ほんとうにそう思っているのか?」

ハルカの問いかけが、まるで僕の心を読んだかのようだったので、僕は笑いながらも視線を泳がせた。

「ぼ、僕は答えかねるよ。……なんかほら、 深神さんってなんでもお見通し、……っていうか地獄耳なところがある……しぃっ!?」

僕はそこで、心臓が止まりそうになるくらいに、おどろいた。

「探偵なのだから当たりまえではないか」

そう言いながら、ハルカの後ろからひょいっと現れたのは、まさかの深神さん本人だったからだ。