ニワトリ(a)
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季節は、またたく間(ま)に過ぎていった。

いまは、六月。
僕、山吹彩人と彼……”姫野ミカミ”が出会ってから、すでに二ヶ月が過ぎようとしていた。
……もっとも、ミカミが言うには、僕たちが初めて出会ったのは八年前ということらしいけれど。

放課後の音楽室。
僕はたったいままで弾いていた、黒色に光るグランドピアノのふたを閉めながら言った。

「ミカミと初めて出会ったときのことだけれど、いまだに思い出せないんだよね……、ミカミ、作り話をしているわけじゃないよね?」
「作り話などして、なにになるというのだ」

音楽室には、電子オルガンが生徒の数だけ、黒板に注目するように並べられている。
その椅子のひとつに座っていたミカミが、ふくれてみせた。

時刻は、十六時。

六月にもなると、もうすでに蒸し暑い。
夏がすぐそこまで来ている気配があった。

しかし、音楽室の窓は閉めきったままだ。
ピアノの音がそとにもれて、ほかの生徒の部活動のじゃまをしないようにするためだった。

ミカミはふたの閉まった電子オルガンを机がわりにして頬づえをつくと、言った。

「あの日、私が泊まっていたホテルのロビーで、彩人がピアノを弾いていたんだ。
私はそれまでにも、何度かピアノの演奏を聴いたことはあった。しかし、音色にこころを奪われたのはあれがはじめてだった」

ミカミはなつかしそうに目を細めた。

「たちまち興味がわいて、ピアノを弾いていた子どもに声をかけた。
自分と同じ年齢だと知って、おどろいたな。こいつはきっと、将来大物になるにちがいないと思ったものだ」

たしかに僕は、幼いころからピアノとともにあった。
父はきっと、僕を将来、ピアニストにしたかったのだと思う。

しかし数年まえのある日、父がとつぜん蒸発した。
残されたのは病気の母と、僕の妹、そして多額の借金だった。

その日を境に、僕たちの生活は一変(いっぺん)した。
家にあったほとんどのものを、手放さなければいけなくなったのだ。
そしてそれは、ピアノも例外ではなかった。

僕たちはピアノを売り、家賃の安いマンションへと引っ越した。
母は心労からか病気の症状が重くなり、いまも病院に入院したままだ。

一度は、もうピアノを弾くことをやめようとも思った。
しかし学校の先生がたと周囲の人たちのはからいで、いままでと変わらずに月見坂学園の高等部に進学することができた。
そればかりか、決まった曜日の放課後にはこうして音楽室のピアノを僕に貸してくれたのだった。

「ミカミの言うとおり、昔はよく父の知り合いのホテルで、練習がてら演奏をさせてもらってはいたけれど……」

子どもが公共の場でピアノを弾けば、それなりに目立つ。
当時、毎日のようにだれかに声をかけられていた。そして僕は、そのほとんどすべての人のことを忘れている。
そのなかのひとりだったらしいミカミのことを、覚えているはずがない。

「……だいたい、ミカミの記憶力がよすぎるんだよ」

実際、記憶力がいいどころのさわぎではなかった。

ここ二ヶ月、同じクラスで過ごしてきてわかったこと。
それは、ミカミは僕が出会ってきた人間のだれよりも、頭がいいということだった。



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