ハジメは僕に、今夜の零時ごろ、十写真館に来るように言った。
そして放課後は何も言わずにさっさと帰ってしまったので、結局理由を聞けずじまいとなった。
そして、あっという間に夜が来た。時刻は、零時、十分前。
僕の家から十家、もとい十写真館は、徒歩五分といったところなので、約束の時間には十分に間に合う時間だ。
僕は、静まり返るまっ暗な住宅街を、できる限り足音を立てないように歩いた。
不用意に犬に吠えられたりして、不審者だと思われたら面倒だからだ。
吐く息は街灯のしたで白く輝き、凍りそうだ。僕はマフラーに深く顔を埋める。
十写真館は、ハジメたち一家が住んでいる住居のとなりにある。
もちろん、こんな夜遅くに写真館は営業していない。
そのため本来なら明かりはついていないはずだったが、僕が十写真館に着いたころには、写真館からわずかな光が漏れ出ていた。
僕は、おそるおそる、写真館の扉を押した。
暖房はついていない。外気とはさほど変わらず、部屋のなかは寒かった。
部屋のなかに入ると、カウンターの上に突っ伏して寝ていたオワルが、目をこすりながら顔をあげた。
「ふにゃ……、……あ、和也、おはよお……」
オワルはパジャマの上にいつものベンチコートを羽織っている。
足元は、裸足にスリッパ。……見ているこちらが風邪をひきそうな格好だった。
「どちらかというともう遅い時間だけれどね。……なに、どうしたの?」
「和也が来たら、もうすこしここで待っているように伝えろって、はーくんに言われて……、でも伝えたから、も、ねる……」
オワルの言う『はーくん』とは、ハジメのことだ。
いまにも倒れこみそうなオワルに、僕はあわてて聞いた。
「ハジメはどこに?」
「暗室だから、入っちゃダメ……、ここで……待ってて……」
そこまで言うと、オワルはぱたり、と僕が来たときと同じようにカウンターに倒れて、本格的に寝息を立て始めた。
「まあ、待てと言うなら、待つけれども……」
しかたなく、僕は近くにあった来客用の椅子に腰をかけた。
僕は何度か、この写真館に遊びに来たことがあるので、店内は見慣れている。
フィルムのにおいだろうか、いつもこの部屋に入ると、独特だけれど決していやではない、変わったにおいがした。
オワルが眠っているカウンターの向こうには、大小様々なカメラがずらりと並べられた棚があり、店内にも数々の写真が飾ってある。
そしてその写真のなかで、一際目を引く、ひとつのポートレートがあった。
それは、……あの鬼無里翠の写真だった。
翠の容姿に惚れ込んだハジメたちの父親が、翠にお願いをして写真をとらせてもらったのだ、と聞いたことがある。
僕は立ち上がって、翠のポートレートの前まで移動した。
この写真を何度かちらりと見たことはあったけれど、こんなにまじまじと眺めたのは初めてだった。
無表情で、こちらを見返す翠。
貸衣装だろうか、いつもとは違う、はなやかな衣装を身につけている。
こうして見ると、まるでフランス人形みたいだ。
彼女がこの世に実在しているなんて、信じられないような美しさ。
写真から、ハジメたちの父親の高揚感までもが、伝わってくるようだった。
彼女をバインダー越しに見たときに、彼はどれだけ胸を高鳴らせたことだろう。
それほどまでに、翠は、
……ぞっとするくらいに、きれいだった。
僕が無意識に写真に手を伸ばしたとき、部屋の扉がかちりと音を立てた。