夜と自転車(c)


一口に路線バスと言っても、市内の停留所だけでも数え切れないほどある。
翠の案で、古山高等学校前停留所と児童館を経由する路線にしぼり、一箇所ずつ見て行くことになった。

「……和也とこうして夜中に出歩くことなんて、ないと思っていたわ」
「それは、うん、ぼくも思っていなかった。こんな事態じゃあなければ、よかったのかもしれないけれど」
「でも、こんな事態にならなければ、私たちは自転車を二人乗りなんて、することはなかった」

僕の腰を抱く翠の腕に、わずかに力が込められた。

「今日がきっと、最後だわ」
「……え」
「和也とこうして、会話を交わすことが。紺が無事に見つかって、おたがいが家に帰った後は、もう、行動を共にすることはなくなるでしょう」

僕の胸がちくりと、痛む。
おそらく翠も、穂坂さんと僕が付き合い始めたことを、すでに知っているのだ。

翠の人生を邪魔することなく、生きたいと思ったのはこの僕だ。
だから僕は、穂坂さんを選んだ。

それは僕が望んで、選んだことなのに。

「……翠?」

僕はおどろいた。
僕の背中に、翠の額の感触を感じたからだ。

「翠? ……泣いているの?」

翠が質問に答えないとき、答えはいつだって肯定だということを、僕は知っている。
それだけの長い時間を、いままで共有してきた。

その翠が、泣いている。
『翠が僕のせいで、泣いている。』……

僕はそのことに、

……生まれてから一番の、幸福を感じていた。

しあわせな記憶は、すぐに色あせる。
しかし悲しみの記憶は、いつまでも消えない爪痕のように残り続ける。

僕は翠の、薄氷のように脆く美しい存在に、傷を残したかったのかもしれない。
邪魔をしたくないと口先では言いながら、……僕はずっと、僕にとって完璧である翠に、傷をつけたかったのだ。

そしてこの矛盾こそが、きっと僕が凡人である、証拠なんだろう。

「……今夜、紺は必ず見つかるわ。見つかった後、紺がなにを言っても、和也はなにも、私に聞かないで」
「翠がそう望むなら、そうするよ」
「……それから、もうひとつ」

僕の背中に額を当てていた翠が、横を向いたらしい。
今度は頬の感触を背中に感じた。

「……穂坂さんと、しあわせになって」

僕も翠に習って、無言の肯定をする。

ああ、いいよ。
……翠がそう望むなら、どんなことだって。