エピローグ
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あれから、二十二年。

翠ちゃんは、神経科学の世界的権威となった。
そしてその輝かしい業績にはまるで見合わない小さな研究所を建ててからは、そこにこもるようにして暮らしていた。

翠ちゃんは、数々の大学の誘いを断り、時たま思い出したように論文を書いた。
そして特許を企業に売っては、そのお金を使ってますます研究に没頭していった。

あたし……オワルはというと、そんな翠ちゃんの研究のお手伝いや、身の回りの世話をして毎日を過ごしている。

ある日の午後。
あたしは部屋の扉を開けるなり、翠ちゃんに声をかけた。

「翠ちゃん、rTMSの結果はどうだった?」
「最初の予測どおり、効果はなさそうだったわ。……オワル、あなたの言ったように、部分的な活性化だけでは意味がないみたい」

淡々とそう答えた翠ちゃんは、デスクの前に座っていた。
近づいてみると、デスクの上には今朝の新聞が乗っている。
翠ちゃんがいままでなんの記事を読んでいたのか、あたしにはすぐにわかった。

それは、ある一家が死んだという事件の記事。
……あたしたちと同級生だった、あの葵和也が自殺して、そのすぐあとに妻の葵千代が娘の萌乃とともに、無理心中をしたという事件だ。

「穂坂さんって、自殺するような人じゃあなかったよね」

あたしは言った。

「なにか、裏がありそう。もうあたしたちには、関係のないことだけれどさ」
「……和也と穂坂さんには、ひどいことをしてしまった」

翠ちゃんは、新聞の上にそっと右手を置いた。
目を伏せる翠ちゃんの睫(まつげ)は長くて、きれいだ。なにも二十二年前と変わっていない。

「……あの時の私はひどく感情的だった。私はきっと、穂坂さんに嫉妬したんだわ。
だから、仕返しをしたの。和也が果たすことのできない約束を、私は交わしてしまった。
果たせなかった後の和也がどうするかなんて、私にはわかっていたはずなのに」
「そんなの、だれだって持っている感情だよ。あたしたちと同じように、翠ちゃんも"ふつうの女の子"だった。それだけでしょ?」

あたしは新聞を手に取ると、その記事に目を通しながら言った。

「……それに、約束を守れないこと……、つまり"穂坂さんとしあわせになれないこと"だって、和也自身もわかっていたと思う」

あたしの顔を見上げる翠ちゃんを、あたしは見つめ返す。

「もしも和也が死んだ原因が、あたしたちの予想しているとおり……つまり、"約束を守れなかった"からだったとしても。
翠ちゃんの記憶から決して消えることがないように、……っていう願いも、少なからずあったんじゃあないかな」

あるいは、穂坂さんへの想いもあったのかもしれない。

そう考えると、穂坂さんとその娘が死んだのも、なんだか仕組まれたもののようにも感じられる。
和也は最後のスイッチを、……自分が死んだときに電源が入るスイッチを、前もって用意していたとしか思えない。

あたしは新聞を、デスクの上にもどしながら言った。

「翠ちゃんの時と、同じだね。翠ちゃんが橋から飛び降りたときも、……翠ちゃん、ほんとうは自分が死んでもいいと思っていたんじゃない?
だってそれならそれで、和也の記憶から、決して消えることがなくなるんだもの」

なにも言わない翠ちゃんに向かって、あたしは苦笑いした。

「ほんとうに、ふたりとも、似た者同士だよねえ」

でも、似ていたのは、なにも和也と翠ちゃんのふたりだけじゃあなかったのかもしれない。
あたしだって、はーくんだって、穂坂さんだって。

あのころのあたしたちは、こころが傷つくことを恐れ過ぎていたんだ。
うまくいかなかったのは、ほんのすこし、あたしたちが臆病だっただけ。

翠ちゃんは、あたしがデスクにもどした新聞をそっと畳むと、引き出しのなかにしまった。

「ハジメは、悲しんでいるでしょうね」
「あー、はーくん、和也のことを慕っていたもんねえ。ま、いまは、どこでなにをしているのかはわからないけれど」

あたしはふう、と息をついて、窓の外を見た。
外の木々から、すっかり葉が落ちている。

そういえばあの時も、今日のように寒い、冬だった。

……思い出が痛い。
いま、あの日々まで時をもどせたら。
また、みんながそろって、些細なことで笑いあえたら。

そう思わずにはいられないけれど。
……でも、世界は残酷な常識に囚われたままだから。

あたしたちはこれからも、

言葉にしばられながら、
死んだように生きていく。



THE END
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2015/07/01 擱筆
2015/09/06 連載終了


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