依頼(a)


蛍が丘市のとなり町にある、さびれた商店街のなかに、小さなビルが建っていた。
そのビルの二階のフロアに、その探偵事務所はあった。

事務所のなかは物も少なく、日用品も必要最低限のものがあるだけだ。
掃除は行き届いていて清潔感はあるものの、事務所としても住まいとしても、はなやかさがいまひとつ欠けていた。
ついでにいうと、依頼も足りない。週に一回、あればいいほう、といった感じだ。

そんなさえない事務所の名は、『深神探偵事務所』。

所長の深神(みかみ)と、助手のハルカが、この事務所で暮らしているのだった。

「……あ、映りましたよ、深神さん!」

テレビの裏側をごそごそといじっていたハルカが、うれしそうに深神に話しかけた。

白河ハルカ……助手とは言っても、まだ十二歳の小学六年生だ。
ハルカは長い前髪をピンで留めていて、いつもフードつきのパーカーを着ている。
そして片うでが、なかった。

彼は二年前まえに『事故』で右腕を失った際、その身元を深神に引き取られた。
それ以来、ずっとこの住居兼事務所で暮らしている。

境遇のせいか、しっかりとした性格に育ったハルカは、 いまでは事務所内の家事全般を、ほとんどひとりでこなすほどまでに成長していた。

「ふむ、しかしまだすこしばかり、映像が乱れているな……」

深神は人差し指の背をあごの下に当てた。

本名不詳の探偵・深神の年は二十代半ばほど。
整った顔立ちで背も高く、細身のスーツを見事に着こなしてはいるものの、 ネコの耳が生えたようなデザインの帽子をかぶっているので、割とただの変質者に見える。

普段は本ばかりを読んでいる彼が、このテレビを拾ってきたのはきのうのこと。
電源を入れてもまったく反応のなかったテレビを、ハルカが修理したのだった。

「こういうときの対処法を、聞いたことがあるぞ。……とう!」

そう言うと、深神はとつ然、テレビの上部に手刀をくりだした。
手刀をくらったテレビは、ぷつんと画面を暗くさせた。

物言わなくなったテレビを見て、一瞬の間のあと、ハルカが叫んだ。

「……ああっ! なんてことしてやがるんですか、深神さんっ!」
「む? おかしいな。画面が眠ってしまったぞ?」

さもふしぎそうに首を傾げる深神のことを、ハルカが左手でぽかぽかとたたいた。
……これが、この探偵事務所の日常風景なのだった。



その後、もう一度ハルカがテレビを修理し、なんとかテレビはふたたび目を覚ました。
目覚めたテレビの画面には、

『オークションに出品された絵画、本物の「サバト」か?』

というテロップが、ちょうど映し出されたところだった。

深神はそのニュースを見て、ぼそりとつぶやいた。

「サバトとは……、また、物騒な名前をつけられたものだな」

『サバト』は、現在世間をにぎわせている画家の愛称だった。
彼、あるいは彼女の絵画には署名もなく、ほぼすべての作品にタイトルもない。

そしてその姿を知る者もだれもいないという、一風変わった画家だった。

サバトが世に現れたのは、ここ数年だ。
サバトの創作の意図こそわからなかったものの、 その幅広い作風と無署名のスタイルが次第に認知されはじめて、いまではちょっとした流行を巻き起こしている。

サバトの作品が人の目に触れる機会は、たまにオークションに持ちこまれる際のみ。
それが決まって土曜日の夜だったために、しばらくは『土曜日の絵描き』と呼ばれていたのが、 やがて土曜の夜にのみ行われる魔女の集会の呼び名にちなんで、「サバト」という愛称で親しまれるようになった。

『代表的な作品に「オレンジのラプソディ」があり、 こちらはサバトにしてはめずらしく、タイトルが添えられている貴重な作品で……』

ノイズ交じりの音声で、テレビはサバトの作品の解説をしている。

「ハルカ。……この絵が本物かどうかはわかるか?」

深神に問われ、ハルカはテレビ画面に映し出された「オレンジのラプソディ」を見た。

タイトルに「オレンジ」と入ってはいるが、特にオレンジ色が使われているわけではない。
むしろ寒色系で、そこに描かれているのも一匹の黒猫の姿だ。

その猫にはどこか野性味を感じさせる迫力があり、今にもキャンパスから飛び出して来そうに見える。

「ぶはっ……くくく」

その絵を見たとたん、なぜかハルカがふき出した。

「はは、これはたしかに本物ですね」

ハルカのそのようすに、深神が怪訝そうに眉をひそめた。

「どうした? この絵にはそんなに愉快なトリックが仕込まれているのか?」

ハルカがサバトの絵にくわしいのには、わけがある。
実はハルカはサバトの正体を知る、数少ない人間のひとりなのだ。
それもそのはずで、深神に引き取られるまえ、ハルカの家で画家として働いていた人物こそが、この「サバト」なのだった。

「いいえ、ちがいますよ。まあ、ある意味、トリックといえばトリックですが」
「気になる言いかたをするな、素直にパパに教えなさい」
「誰がパパだ、ぜってー教えねえ」

心の底からいやそうに、ハルカが言った。
深神はもうすこし絵についてたずねたかったが、時計を見て考えを改めた。

「そういえば、今日は依頼があったのだったな。すこし出かけてくる」

深神は机の上に転がっていた手帳を胸ポケットにしまった。
ほかに身支度らしいことはなにもせず、そのままつかつかと事務所の入り口へと歩いていく。

はっとしたハルカが、あわてて深神に駆け寄った。

「……ちょ、ちょっと! そういうことは、もっとはやくに言ってくださいよ! 夕飯までには帰ってきますよね!?」
「ああ、依頼主の話を聞いたらすぐに帰ってくるよ」
「あと、見終わったテレビは消す! それと……っ!」

一丁まえに説教を始めそうになったハルカを見下ろし、

「いい子で待っていなさい」

深神はハルカの頭をわしわしとなでた後、ひょうひょうとした足取りで事務所から出て行った。

「……それとその帽子、はずかしいから脱いでいってくださいってば……」

事務所に残されたハルカの苦々しいつぶやきは、 まろやかな午後の光が差し込む事務所内に、すぐに溶けこんで消えた。