鉈(a)


古い民家と畑の風景が広がるのどかな田舎町、「ハグルマ町」。
このハグルマ町の片すみにある刃物屋で僕は、研ぎ師兼、店番として働いていた。

遠い昔から代々受け継がれてきたこの店は、古い建物特有のにおいがして、壁の色もだいぶ色あせている。
おまけに来客もほとんどないような店だけれど、僕はこの店で過ごす時間が好きだった。

ある冬の午後。
その日は朝からしとしとと、雨がふり続いていた。

「はあ……」

僕はというと、研ぎ場の椅子に座ったまま、深いため息をついた。

「君、どうしたというのです。最近、ものうげなため息をついてばかりじゃあないですか」

椅子に座って本を読んでいたクゼさんが、顔をあげて言った。

クゼさんは灰青色の髪を持ち、いつも燕尾服を着ている、変わった男の人だ。
……いや、厳密にいうと、彼は「人」ではない。
信じがたい話だけれど、彼の正体は「灰青色の牛刀」で、いろいろあってこの刃物屋に居ついているのだった。

僕は、肩をすくめてみせた。

「だって……、近ごろ、あまりにも物騒(ぶっそう)なできごとが続いているじゃあないですか。……連続通り魔、銀行強盗、それに……」

そこまで言って、僕は首をふる。

「……どの事件にせよ、そのすべてに刃物が使われているんですよ」
「そしてその刃物たちは、どれも君が研いだものですね」
「事件の前後を問わないなら、そうなりますね……」

そこで僕は、ふたたび大きなため息をつく。

「僕はこの仕事が好きですし、クゼさんのことだって好きです。 でも、刃物で人が傷つくことに関しては、……どうしても受け入れがたいんです」
「……まあ、落ちこむ気持ちもわかりますが」

クゼさんがめずらしく、僕に理解を示した。

「しかし、君が気に病むようなことではありませんよ。刃物の運命は、結局のところはその持ち主が決めることなんですから」
「それは、そうかもしれませんが……、ただ、『あのお客』のことがどうも気がかりで……」

言いかけて、僕は口をつぐんだ。
扉が開き、たったいま僕が言おうとしていた『気がかりなお客』が、ちょうど店のなかに入ってきたからだった。

「いらっしゃいませ」

僕が声をかけても、お客は無言だ。
彼はそのままいつもの位置……、店のまえの通りに面した窓ぎわに立った。

お客は、ひょろりと背の高い青年だった。黒いトレーナーに黒いズボン。
同じく黒い帽子を目深(まぶか)にかぶっていて、こんな寒い時期なのに、足もとはなぜかビーチサンダルだ。

彼がこの店に来るようになって、もう数日は経っている。

そのあいだ、彼は特になにかを探すでもなく、買うでもない。
ただただあの窓ぎわに立っては、ぼんやりとそとの景色を眺めているのだ。

そのすがたはどこからどう見ても、不審人物だった。

「あの、なにかお探しですか?」

そして今日。僕は勇気を出して、彼に声をかけた。
彼はというと、おどろいた顔で僕をふり返った。

「え、……え? 俺、ですか」
「あ、はい。ええと……」

僕がクゼさんをちらりと見ると、クゼさんがちいさくうなずいてみせた。
僕は軽くせきばらいをしてから、青年にたずねる。

「すみません、おなまえをうかがってもいいですか。 近ごろ、いろいろと事件が多いので、お客のなまえをひかえるようにと、店主に言われているんですよ」

これは、事前にクゼさんと話し合って決めていた声かけだった。
もしも相手がうしろ暗(ぐら)い人間だったら、警戒してその場から立ち去るだろう、という思惑(おもわく)があったからだった。

「……ギスケ、だけど」

お客の青年……、ギスケさんは、帽子のつばに指をかけながら、ちいさな声で言った。

「すみません。なにか買わなきゃ、ダメだよね」
「いえ、そんなことはないんですが……」

僕はそう言いながら、ふと、ギスケさんがいままで見ていたほうへ目を向けた。

刃物屋のまえの通りをはさんで、ななめ向かいがわの方角……、そこには、服屋の建物が見えた。
店先にはガラス板がはめこまれていて、色とりどりの服が並んでいる。

「……あ」

そのとき僕は、思わず声をあげてしまった。
ガラス板の向こうに、服屋で働く若い娘のすがたが見えたからだった。

彼女は、このあたりでは笑顔がかわいいと評判の娘だ。
彼女はせっせと、店のマネキン人形に新しい服を着せているところだった。

「ギスケさん、……もしかしてあの子を見ていたんですか?」
「うっ?」

指摘されたギスケさんの顔はみるみる赤くなり、やがてうつむいてしまった。

「……ひ、ひと目ぼれ、で……」

ギスケさんが、声をふりしぼるように言った。

「でも、あの服屋まで出向くような勇気がなくて。 ここから見ているだけでしあわせだったんだけれど、……刃物屋さんには迷惑だった、よね……」
「そういうことでしたか……、いいえ、迷惑だなんてことはありませんよ」

ギスケさんがあやしい人間ではないということがわかり、僕は胸をなでおろした。

「ただ、僕はかまいませんが、ここから彼女を見ているだけでは、もったいない気もします。 まずは服を買いに……いや、見るだけでもいいので、あの店に顔を出してみてはどうですか? 彼女もそのほうが、よろこぶと思いますよ」

ギスケさんは照れくさそうに、帽子の位置を直した。

「背なかを押してくれてありがとう、刃物屋さん。 ……まずは、彼女とお近づきになって、店のそとに連れ出すことを目指してみる。それで、ほしいものがあるんだけれど……」
「はい、なんですか?」
「……鉈(なた)を、くれないかな」

僕はそれを聞いて、ぴりり、と顔を引きつらせてしまった。

「鉈、ですか?」
「……? もともと、いずれは鉈を買うつもりで、刃物屋に来ていたんだけれど……、ダメだった?」
「い、いえ、そんなことは……」

僕の脳裏には、いままでに起こった不運なできごとの数々がよぎったけれど、 僕はぶんぶんと首を横にふって、その考えを打ち消した。

「もちろん、買っていただけるならよろこんでお売りします。……でも、ギスケさん、ひとつだけ約束してください」

僕はギスケさんの両手をにぎった。

「鉈をぜったい……、ぜったいに、人に向けては使わないでくださいね!」
「……え、ええ……? さすがにそんなことはしないよ……」

ギスケさんは、困ったようにそう言ったのだった。