マフラー(c)
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あくる日の水曜日の朝。
僕が家を出ると、そこにはオワルが立っていた。

まさか、オワルが僕のことを待っていることがあるなんて思わなかったので、僕はひどく驚いた。

「オワル、どうした? まだ七時を過ぎたばかりだぞ」

オワルは無言で、僕の左腕をつかんだ。

「和也。話がある」

低く抑えた声。
……どうやらオワルは、怒っているらしかった。

僕はそのまま、まるで警察に連行される犯人のように、近くの公園へと引きずられていった。

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僕の家の近くにある公園は、すべり台と砂場、鉄棒、そしてブランコといった遊具が揃っている、ごく平均的な公園だった。
広さもそこそこで、大きく育った木々のおかげで日中は日陰ができるので、夏の午後なんかは子ども達でにぎやかになる。

しかしさすがに、こんな朝早くに公園にいる人間はだれもいない。
僕自身も、冬の朝の公園に来る機会は今までなかったので、新鮮だった。
まだ踏まれていない霜柱を、しゃくしゃくと靴底で踏んでいくのは、なんともいえない心地よさがあった。

「……穂坂さんと付き合うことになったって、ほんとう?」

おもむろに、オワルがそう口を開いた。
一瞬、穂坂さんってだれだっけ、と思ったけれど、すぐに思い出した。
そういえば昨日、A組の穂坂さんに付き合おうと言われて、了承したのだった。

「うん、ほんとうだよ」

僕が言うと、オワルはきっ、と僕を睨みつけた。

「もしその前に、あたしが付き合おう、って言ったら、和也、きっとあたしと付き合っていたよね。理由は、"特に断る理由がないから"」

……彼女はこんなでも、古山高校では翠に次ぐ明晰な頭脳の持ち主だ。
さすが秀才、とでも言うべきか。察しがよかった。

僕は言葉を選びながら、言った。

「……でも、そんなことは起こりえないだろ?」
「じゃあ、その相手が翠ちゃんだったら、和也、どうしてた?」

小鳥のさえずりが、やけにうるさく聞こえる。
近くの木に、鳥の集団でもひそんでいるのだろうか。

僕は耳にまとわりつく鳥のさえずりを払うように、オワルから視線をはずした。

「……翠だったら、断っていた」
「理由は?」
「……翠が隣にいることが、いつか当たり前になってしまうことが、怖かったから」

触れられないような存在が、それでも触れられるまで、側に近づいた時に。
身近に感じるようになって、当たり前になって、やがて空気のような関係になっていくというのなら。

解り合えるだなんて、分かち合えるだなんて、
そんな錯覚を起こすようになるくらいに、自分の脳が劣化していくのだとしたら。

……僕は、そんな恐ろしい未来に耐えられない。

「……翠ちゃんは、和也が思っているほど、強くなんかない」

オワルはうつむいていて、顔は前髪で隠れている。どんな表情をしているかはわからなかった。

「覚えてる? 翠ちゃんが、橋から飛び降りたあの日のことを。
翠ちゃんは、……"和也と同じ学年になりたくて、橋から飛び降りた"。
翠ちゃんはにとっては、橋から飛び降りることよりも、自分の想いを正直に告白することのほうが、怖かったんだね。
でも、そこまでしてでも、わずかな高校生活の間、少しでも長く和也と一緒に過ごしたいって、
……自分を変えたいって思うくらい、翠ちゃんは和也のこと……」
「……だからだよ」

僕がぼそりとつぶやくと、オワルが顔を上げた。

そんなこと、知っていた。
だってあの日、……彼女が橋から飛び降りた日。
最後に彼女と会話を交わしたのは、僕だった。

僕はとっさに、僕の腕をつかんだままのオワルの腕を、右手でつかんでいた。

「彼女は変わってはいけなかった。……だって、一年だぞ? 翠は僕なんかのために、彼女の一生の、一年分も無駄にした……!」

翠が目覚めるまでの一年間、僕は死んだように生きていた。
その間、僕は自分を責め続けた。

僕が彼女を変えてしまった。
僕なんかが、彼女の時間を奪ってしまった。

「彼女は天才だ。"望んだ月日分を植物状態で過ごす"ようなことが実現可能な、常人にはとても理解できないほどのスペックの頭脳を持っている。
それなのに、彼女はその才能を、正しく使おうとしない。……これは世界の損失だよ」

僕の声はもう、ほとんどかすれていた。
寒いはずなのに、頭が熱い。

なんだか泣きそうだ。理由は、わからないけれど。

「……彼女のとなりに立つなら、凡人の僕なんかよりも、きみのほうがずっとふさわしいんだよ、オワル。
僕はきみたちのことを、遠くで見ているだけでいい」

オワルは、僕の顔を見上げた。

「それが和也の答えなんだね?」

いつの間にか、鳥達の鳴き声は聞こえなくなっていた。
僕が黙っていると、

「わかった。あたしが翠ちゃんを引き受ける。……あたしが翠ちゃんを、しあわせにする」

オワルは僕の腕からようやく手を離すと、そのまま僕の右手をふり払った。

「最後にひとつだけ。和也、……穂坂さんの下の名前、知ってるの?」

僕が答えられずにいると、オワルはくるりと後ろを向いた。

「……私、和也のことなんて、だいっきらい」

まるで泣いているかのような、震えた声で、オワルはそう吐き捨てた。



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